相倉合掌集落の概要

相倉集落は、富山県東砺波郡平村の22集落のひとつである。
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※平村は平成16年11月、市町村合併により「南砺市」になりました
越中五箇山の名称は、江戸時代の加賀藩領の地域名称で、赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の5つの地域からなり平村、上平村、利賀村の三村を合わせた地域の総称である。

(1)平村の歴史・地理的景観・生活
平村は富山県南西部に位置し、面積94.06km2、人口1,383人(平成16年1月1日現在)の観光・サービス業を主要な産業とする山村である。
 村の中央を日本海へ注ぐ庄川が1500m前後の山並みを縫って北流する。また日本有数の豪雪地帯でもある。
 その歴史は、古くは縄文時代から開け、東中江遺跡やこもむら遺跡などの発掘調査により、当時から富山平野と飛騨地方を結ぶ要所であったことが知られている。古代となると、天台系の山岳修験道の場として、人形山(1,726m)を中心とした地域が開かれている。中世には、北陸での浄土真宗の広がりとともに五箇山一帯にも普及され、浄土真宗の教徒による集落づくりが進められた。
 近世では加賀藩領となり、五箇山の語源といわれる赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の5地域が形成された。
 近代になると、明治22年(1889)には五箇山70箇村のうち25箇村で平村が成立し、また、昭和初期に開通した自動車道や電源開発などを契機として、徐々に村民の生活の近代化が進められていった。
 近世の史料によれば、農業生産としての稲作は少なく、僅かな畑地と焼き畑で稗・粟やそばなどが栽培され、これに炭や薪、漆などの山林生産が加わる程度であった。当時の当地域の主要産品は和紙、塩硝、養蚕である。和紙は冬季を利用して生産された重要な換金生業であった。
 火薬の原料である塩硝は加賀藩の庇護と統制により、江戸時代を通じて合掌造り建物の床下等で、雑草などを原料として生産された。養蚕は16世紀前期には始められていた記録があり、安定した収入源となったばかりか、前二者とは異なり、近年まで継続した。山間部における養蚕は蚕の飼育などの広い空間を必要としたため、合掌造り建物の二階以上の小屋組部分が広がるよう、急角度な屋根構造となったのではないかとも言われる。
 五箇山には「組」と呼ばれる生活上の相互扶助の組織が古くからあり、草刈り、水路清掃、除雪、神社の出役など現在でも継承されている。
 さらに、ユイ(結い)やコーリャク(合力)と呼ばれる屋根の普請や茅屋根の葺き替え時の互助制度がある。このような制度成立の背景としては浄土真宗による結束力と厳しい自然環境下での協力体制などが指摘される。


(2)相倉集落の歴史・地理的景観・生活
相倉集落は、平村のほぼ中心に位置し、庄川左岸の細長い平坦な段丘上に所在する。北西側には急傾斜な岩場にブナ、トチ、ミズナラなどの大木が生え、「雪持林」として保存されている。南東側には斜面となり庄川へ続く深い谷へとなっている。
 相倉の村としての歴史では、天文21年(1552)の瑞願寺(平村下梨)の古文書にみえる「相倉村」の記述を最古とする。近世では下梨谷に属し、元和5年(1619)の検地では村高は121石余りで、和紙や塩硝が主な生産品であったことが記述されている。さらに、薙畑と呼ばれる焼き畑農業で(稗、粟、そばなど)で自給生活が行われていた。戸数は寛文年間(1661~1673)に15戸、天明3年(1783)に26戸、明治20年(1887)に53戸(人口311人)という記録がある。現在は21戸(80人)である。
明治20年には砺波平野にある城端町への街道である「道谷新道」が相倉を入り口として設けられ、交通の主要な要地となったが、昭和初期に建設された村を縦断する自動車道が、相倉集落から外れて設けられたため、徐々に過疎化が進んだ。太平洋戦争後は開拓地整備事業を取り入れて、桑畑等の水田化が促進されたものの、人口の流出と住民の高齢化を避けることはできなかった。
 相倉では山村としての環境と生活の調和が見事に保存されているが「奥山」と呼ばれる保護地域、「遠い山」と呼ばれる生活に必要な木竹などの採取地、「近い山」と呼ばれる開墾地、「カイツ」と呼ばれる耕作地、「オオハイ」と呼ばれる雪持林などに基本的に区分され、共同で山林の維持が図られてきた。


3)史跡の現況
文化財保護法に基づき史跡として国指定を受けたのは昭和45年12月4日で合掌造り建物を主体とする集落とその背後の雪持林や茅場など、46haが保護されることになった。
 相倉集落は戸数21戸、人口80人(平成16年1月1日現在)で平村22集落の中で5番目の規模を持つ。標高は約400mで、概ね約500m×250mの細長い平坦地に所在する。かつて主要道であった城端往来が集落の中央を北から南へ走るが、現在は昭和33年に設けられた幅員4mの村道が生活道路となっている。
 農耕地で使用する水は西方の谷川(仙道谷)からの導水を利用している。農耕地は不整形で小さいものが多く、石垣で法面が保護されている。現在では水田耕作が大半であるが、野菜や豆類に自給的な畑作も部分的になされている。主屋は石垣で造られた平坦面に築かれており、塀や生け垣のない開放的な構えとなる。付属屋としては土蔵と板倉がみられる。信仰の中心である浄土真宗の寺院「相念寺」が城端往来をはさんで「西方道場」と相向かって設けられており、また集落の護り神である地主神社がやや高い位置に設けられている。道場とは浄土真宗の布教所として建てられたものであり、当時の公民館的な機能を果たしていたと言われている。
 大半の主屋が茅葺きの合掌造り建物であり、伝統的な工法で建てられているものは20棟を数える。また、かつて合掌造り建物であったが、合掌小屋組や茅屋根などが改変されているものが5棟ある。これらの合掌造り建物の多くは近世末期から明治時代にかけて建てられたものであるが、17世紀に建築年代が遡るとみられるものも現存する。
 合掌造り家屋を中心とする家並、往来、耕作地、水路、雪持林などからなる景観は、おおよそ明治時代から昭和初期にかけての様相を保存しており歴史的な建物とその歴史的環境を現在に良好に伝えている。


(4)世界遺産登録に至るこれまでの経過
昭和40年 国指定史跡に内定
昭和42年1月23日 集落住民によって相倉史跡保存顕彰会結成
昭和45年12月4日 史跡に指定
昭和48年4月14日 平村が管理団体に指定
昭和52年12月 史跡保存管理計画策定
平成6年6月28日 平村伝統的建造物群保存地区保存条例制定
平成6年8月10日 伝統的建造物群保存地区を「平村相倉伝統的建造物群保存地区」に決定
平成6年12月21日 重要伝統的建造物群保存地区に選定
平成7年12月6日 世界遺産一覧表への記載が決定

国指定史跡 越中五箇山相倉集落保存管理計画策定報告書より
平成8年3月  平村教育委員会


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