屋根葺き

平村教育委員会 「相倉の合掌造り」より

今は屋根の片面を15年から20年に一回ほどに葺替えするが、以前は屋根の両面を4等分ないし6等分にして2年ごとに葺替えをした。
 10月20日ごろからの茅刈りにはじまり、11月末から雪の降るまで屋根葺きがあるのが普通だが、雪がきて春に持ち越すことがあっても、毎年繰り返しの年中行事であった。晩秋に葺くのは冬の雪で押さえて屋根が固くなると長持ちするためで、秋じまいの最後になる。
 茅はどこにでも生えるススキ(オガヤ)とは違い、カリヤス(刈安)でコガヤ(小茅)と呼ぶ。各自に茅場があって手入れして育てた。この地方に合掌造りが発達したわけは、カリヤスの育ちに適した土地柄からでもある。
 屋根葺きは男7〜8人と女3〜4人で一日ですむが、男は労力交換のユイ(結い)ですまし、女は手伝いのコーリャク(合力)となる。昭和60年頃まで続いた屋根葺替えのユイやコーリャクはだんだん賃金制がまじってきて、五箇山森林組合への委託にする。

(1)ユイで葺いたころの屋根の葺き方
ユイの頃の作業は、屋根まくりに始まる。屋根の大きい勇助家では、夜明けに朝食をすませてきた人たちがすぐに屋根へ上がった。棟から順にはがして古茅を束ねてころがし落とす。古茅は集めてニョウ(積む)にしておき、後で畑に運ばれるが、あまり傷んでいないのは新茅に混ぜて葺く。棟茅にしたり雪垣に使い、オエ、ネドコの敷茅にもなる。
 葺きはじめは、縦にハフ結い、横に屋尻結いの基礎をつくってから、平葺きとなる。
 屋尻は、キリカエの麻がらと古茅の束はそのままにして、キリカエ茅を積み重ね、幅広のキリカエ叩き槌で小口を突き揃え、縫木を二段に当てて固定する。ハフは屋尻に合わせ隅に芯茅を当てて固定させてから結いはじめる。ハフに添って梯子を取付け、前取りが位置する。この2人がかりで結上げていき、反りのある鋏で形が整えられる。
 平葺きにカイド木の足場は使わなかった。縫木に足を置いてからだを支えるだけで、両手をひろげたほどの幅を受け持つ一人葺きである。破風(ハフ)が左手にあれば左足で立って右足は上へ伸ばして一縫い分の茅をひろげる。相倉の茅は扱い易いように四手1把にしてある。釘竿幅に四手を並べる。
 次は縫木の尖った先を左手の縄結びへ差し込み、藁縄の先を通した針を縫木の下側から屋根裏へ突き通す。屋根裏の針取りが縄をはずすと引き上げ、こんどは縫木の上側から針をさし、釘竿をまたいだ縄の先を引き上げる。これをシッテといって縫木にカメムスビで止めておく。左手で縄を引き、右手にサイハイという槌を持って縫木を叩いて締める。左足は下の縫木に固定したままで右足を上の縫木にかけて動かし、踏み締め叩き締め、引き締めて縄をツノムスビ止めする。これで釘竿と縫木にはさまれた茅が固定してぬけて下がるようなことはない。
 同じように右へ4手縫ほど茅当て縄結びをして右の者につなぐ。右に位置する者は、左の者が終わった葺口へ茅を当てて並べ、縫木を横から差し込んで縄をかける。この手口は左の者と全く同じ。次の者へ送るのもまた同様にするからすこしずつおくれて葺き進む。
 破風が右にあれば右から左へとなり、右足を固定して左足を上に動かすことになる。両方から葺きはじめると真ん中がいちばんおくれて、つなぎ目が合わなくなったりする。それで縫い下がりにならぬように古老にやかましく言われたと地元の人は語り、縫い合わせ目がわるいと雨もりする。ことに古い屋根とのつなぎ目を入念にしておかないといけない。縫いはじめと縫い合わせが大事である。
 なお、横一線でなく中央部を両端より高くした。雨や雪で押し下げるからである。それで大きい屋根は中央部の位置を決めてそこから葺きはじめたといわれる。
 これらのことは、相倉の者なら誰でも知っていて、相倉方式のように言って熟練した技術を伝えていたものである。
 屋根の棟茅は風向きにもよるが、株を往来側に向けて置く。棟両端にも破風にも飾り茅はない。鳥どまりというのがなくて、馬のりという破風の縄かくしをつける。棟の先端に覆いかぶさるように半把ほどの茅をひろげて縄をかけるのだが、これをするにはからだを乗り出すように腹ばう。合掌が前倒しになって宙に浮いた感じになり、とても怖かったという。これは今でも毎年の棟茅包みのときとりかえなければならない。


(2)古茅は大地へ戻されて生業を支える
古茅は桑畑・楮畑へ運ぶ。中田氏は集落上の大平・小平までかずき上げるのがひどかったと語る。
モッソというすすけ茅のごみくずまでが畑を肥やす。春畑打ちのあとへひろげておくと、除草の手間がはぶけ、害虫予防にもなる。やるとやらぬで桑の葉のひろがり方がちがい楮の延びも良い。古茅は再び大地へ戻されて、生業の養蚕、和紙を支える陰の力となったのである。


茅場の仕事
茅の収穫
屋根葺きの様子


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